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運命の出逢い(予告編?)

痛みさえ感じる刺すような太陽光から逃れる方法は、夏というシーズンを終えるまではない。

空を見上げて、爽快感が突き抜ける眩しい青さにため息をつく。
土は熱を吸収するけれど、人工で作られた路面のアスファルトはただただ熱を反射させる。上からも下からも熱にさらけ出す。
得にアスファルトからの熱はダイレクトに足首に熱が絡みつく。
風を切って振り払うように、いつもよりも1.5倍の速さで歩き出した。

人は自分勝手に都合よく考える。
鬱陶しい、気分が憂鬱になるとあれほど嫌った灰色の雲と、洗濯物がたまる原因となる雨が必要だと。

熱さを凌ぐためにほんの少しばかりの、癒しの雨を。

「当分、そんな雨はないなあ・・・」

運悪く立ち止まらなければならなくなった信号機。
溜まっていく人間の密度でさらに気温が上がった気分にさせられた。いや、気分ではなく、確実に上がっていると思われる。
汗を拭う人の手が視線に入ると、無意識に自分も顎辺りを手の甲で触れる。

いつもの街のいつもの駅前。
いつも目に、耳にしている景色と雑音。なのに、夏真っ盛りの今は、その”いつも”が10倍増しに感じる。

夏の排気ガスは鼻周りにつきまとってクドい。
いくら車好きでもさすがに疲れる。


携帯電話を持つようになっても時間の正確さを求めるために、腕時計は必須アイテムだったが、さすがに近頃は身につけられなかった。
手首にボーダーラインができる”時計焼け”を気にして外している訳じゃない。

ただ一言、夏だから。
少しでも”熱さ”を凌げるなら。と、考えて。

ジーンズの左ポケットに突っ込んでいる、携帯電話を取り出して時間を確認した。

信号の色が赤から青に変わる。
一斉に流れだす人並みから一歩でも早く抜け出すために、駈け出した。





待ち合わせの午後4時。
太陽が一番高い位置から少しずれた時間。

駅とリノベーションを済ませたばかりのファッション雑貨ビルを繋ぐアーケードは、人々の憩いの場所として提供された、小さな噴水広場が見渡せた。
夏の間だけ子どもたちのために解放されている噴水は親子連れで満員だ。

涼やかな水音。時折飛んでくる飛沫と子どもたちの歓声。
昨今珍しくなった蝉の声も混じっているが、ホームに滑りこんでくる電車でかき消されてしまう。

「面倒臭くなってきた・・・」

アーケードの影にほっと一息ついた、…途端に、今から更に移動することが面倒になってくる。

サウナ状態の家から逃げるように外に出て、外では太陽光を避けるために足を急がせた。
そして今、「夕食を御馳走するから」の声に踊らされて待ち合わせ場所に辿り着いて、待つ以外なにもすることがない。



プロとして実を立たせることができれば、アルバイト生活からも、”夕食”をサカナにされた面倒な誘いともサヨナラできるかもしれない。

自販機に沿って躯を横へ滑らせ、広告用のポスターが並んだ前に立った。待ち合わせしている”仲間”らしいの輪に参加する。
自分と入れ違いで抜けていくカップルの女性が、ふと足を止めて声高に隣りを歩く男性に報告した。

「知ってる?この子ねー、モデルだって思ってたんけどぉ、有名なバレリーナなんだってー。友達が言ってたー」

妙に浮き立った声が耳に残る。釣られて自然と背にしたポスターに視線を流してしまった。

「・・・バレリーナ・・・」

同じくらいだと思われる女の子は、異国の清涼飲料水のポスターにオファーが来るほど、その世界で活躍しているんだろう。

「島村!!」
「こんにちは、」

羨ましさを超えた嫉妬心、を抑えさせられた、名前も知らない女の子の爽やかな笑顔。

「悪いな、頭数どうしても揃わなくって・・って言うのは建前で。正直に告白すれば条件に”島村込み”って言われてよ。本命のいる田中のために一つ、頼むわ」

そして、目の前にする妙齢男性の汗にまみれた、苦い笑顔。

「飯のためならいくらでも。今日はガッツり食べますよ、月末なんで」
「ああ、わかってる。・・田中の本命以外で好きな子がいたら、もちろんお持ち帰りしてくれてもOKだからな」
「僕は草食系なんで、お持ち帰りなんてとんでもない・・広告の女の子を眺めてるだけで、満足です」

待ち合わせをしていた男は、ジョーの後ろで笑いかける女の子を見た。

「なるほど・・、島村の好みはコレか」




end.









*こちらは「Un moment heureux」に置いた絵とリンクしたお話です。
* イラストページへの直通リンクはコチラです。

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Little by Little・26
(26)






「・・・・Fanchon」

耳に入って来た単語(ニックネーム)。
風船が割れた衝撃に似た感覚がフランソワーズの思考を、何もかも一瞬にして真っ白にした。

声をあげてカウントする、0と1の間に吸い込んだ空気がのど元で止まる。
暗闇の中でいきなりスポットライトを浴びせられたような目眩に、フランソワーズは息を止めた。





「Fanchon」



いつものように”フランソワーズ”と呼ぶはずだった。
けれど、フランソワーズと頭に描いた言葉は、口からこぼれ落ちた単語は、彼女を指していながらも、違う名前だった。

その名を口にするのにフランソワーズの許可は必要ないと頭ではわかっていても、勝手に呼ぶ事を躊躇った。いままでにも幾度か唇が発しようとしたFの発音をきゅっと唇を噛み締める事で我慢した。
不意に口にして、驚かせたこともあった。

その驚きに臆した自分がタイミングを逃し続けていることも、舌打ちをうつ原因の一つだった。


自分がどう頭をひねっても”フラン”意外の彼女へのニックネームを思い付かず、そのセンスもない。
インターネットで仕入れた別のニックネームは”フラニー”だった。が、まるで洗剤か何かの名前っぽくて気に入らなかった。
それなら”フラン”のお菓子っぽい方が、彼女にはよく似合っていると思う。先にそれを呼び始めた篠原当麻に、腹立たしさよりも恨めしい思いの方が強かった。
同じように呼べばいい。その呼び方は別に”篠原”だけのものではないのだから。

けれど、変な意地が邪魔をして呼べなかった。





フランソワーズの左の頬に、自分の右頬が触れるか触れないかの距離でいながら、彼女の温度が伝わって来る。
バスタブから引き上げたフランソワーズをベッドへと運び、しっかりと夏用の掛け布団で肌を隙間なく隠して包み込んだ後、腕が勝手な”事”をしださないように意識して力の出力レベルを脳内のコンピュータに表示させ、被いかぶさるように彼女を軽く抱きしめた。



「・・・f・・」


ファンションと呼んで良いのかどうか。
すでに口に出してしまっていたにも関わらず、ジョーは意識すればするほどに躊躇いが大きくなった。

耳元に薄い呼吸音が流れ、まったく狂いのない同じリズムで彼女の胸が上下している。
夏用の厚みのない掛け布団がフランソワーズの肌から雫を吸い取り、彼女の肌に代わって濡れていく。
ジョーの腕の力加減がかすかに強くなり、フランソワーズを自分の胸に寄せると言うよりも、ジョー自身がフランソワーズに体重をかけるように、覆いかぶさるように、抱きしめていた。


「・・大丈夫?」


人形のように固まってしまっている理由は、今頃になってお風呂場で溺れかけたことに驚いているのか、”今のこの”状況”に戸惑っているためか、それとも・・・。


「まだ、・・・苦しい?」


ジョーはフランソワーズの左耳に唇をよせて、ささやいた。
風呂上がりの、とは言えない、白く冷たい色を載せたフランソワーズの肌。腕の中のぎゅうっと何かに耐えるように固く瞼を閉じた彼女の様子を窺った。
ジョーの問いに対して、フランソワーズがささやかに顎を左右に揺らす。


「・・・・よかった」


細い糸の上に乗せたような震える画像は、押し付けられている彼のTシャツの布だった。


「・・・驚いたよ・・」


何者かからも護るようにフランソワーズの躯を覆い、彼女を閉じ込めるように抱きしめる力が強くなるたびに、沈んだマットレスの傾きを感じる。
瞳が、驚きの空白から逃れようと瞬きという名の震えをを繰り返すが、目の前には布しかない。


「・・・っ」


フランソワーズの唇が何かを告げようと空気を吸い込んだのをジョーの耳がとらえた、と同時に、フランソワーズの顎がジョーにむかって突き出す動きをみせた。
上手く声帯を揺らすことができず、声にならなかったことにもどかしく感じた行動だろう。

ジョーは抱きしめていたフランソワーズから少し躯を離した。
二人の間にできた空間にねじ込むように顔を近づける。
クローズアップで瞳に映ったフランソワーズ。彼女の顎が視線を合わせるかのように微かに上がり、折れそうに細い首筋をそらした喉もとから緊張にはった見下ろす丸い肩が、まぶしい。

ジョーは掛け布団を引っ張り、その肩を隠した。


「ああ、・・・・そうだ」


フランソワーズの前髪から頬を伝った雫が唇にふれる。それを口に含むように下唇を巻き込んだ。


「・・・・今なら、いいのかな?」


唾液が喉を通るとき、咽て引掻かれた部分が凍みた。


「”ハッピー・ポイント”を、使って。・・・俺の、分。・・キミに、・・あげる、よ」


覚えていてくれた嬉しを超えて、それは絶対に断らなければと強く思う。


「キミが、・・・少しでも元気になれるように」
「・d・・メ・・」


声がひきつり、ちゃんと届いたかどうか分からないが、首を振る動作を付けていたので、伝わっているようだ。
眉根を困ったように下げた彼が見えている。


「・・毎日、俺は、キミから、もらってるから・・・・、なくなることは、ない・・だから、今日は、・・ファンションに、」


ジョーの腕の力が強くなると、ピタリと躯が合わさり再びフランソワーズを抱きしめなおした。


「あげる、よ」


先ほどよりも、ずっと強く。


抱きしめた。











Fanchon


君 の 幸せ の ためならっ 僕 の すべて の ハッピー・ポイント を あげるよ(day by day より)





思い出せない声に、今、耳にしている声が重なる。
兄の姿にジョーの声が重なる。

アルベルトが、それを指摘する。


『そういえば・・・、ジョーにも”兄さんの、面影を重ねていたときが、あったよな?』




ジョーの声に、兄、ジャンの姿。
自分勝手な都合の良い組み合わせに、フランソワーズは泣きたくなる。

ぼやけた輪郭をクリアにするために必要な情報として、ジャンの姿を描くその一瞬に当麻の姿が重なったことを。
兄を思い描くために、”きっかけ”が必要になってしまっていたことを。


時間の流れに薄れていく記憶。
念じるように毎日描いていた兄の姿は、大雨の日の車のフロントガラスから見る人影のように把握しづらい状態になってしまっている。

古ぼけた記憶を蘇られてくれるなど、頭部に埋めこまれている機械が便利に作られているわけはない。
戦闘になんら関係のない情報であり、それらを記録しておく隙間などないのだから。




兄を想い、慕い、恋しいと訴える。
同時に会えない、会いたくない、会えるはずがないと叫ぶ。


渦を巻き濁り、ゆっくりと沈む思考。
静かに沈殿させていればよいものを、時折かき乱してそれらを浮上させる。




解っていた。

彼が向ける好意に心地良さを感じていたこと。
そこに求められている感情と等しくない、打算的な甘え。


解っていた上ですべてを飲み込み向けてくれた好意。
利用していたのは、当麻だけではない。フランソワーズ自身も、利用していた。


「・・・フランソワーズ?」
「ジョー・・・・もう、大丈夫、・・よ・・・」


そして自分は、今、ジョーの腕の中にいる。
憧れて、慕い、・・・兄の姿よりも先に描く人となった、男性の腕の中に。










最低だ。





「・・・」


腕の中に閉じ込めるフランソワーズが抵抗するようにジョーの胸を押し返した。
その力に抗うように、更にジョーは力を腕に入れた。
二人がいるベッドのマットレスのバネが大きく反応して軋む。


お年頃なんて言葉で片付けられない欲望は、もう限界を軽く越えている。
ただ、理性で押さえ込んでいると思うけれど、実のところは、腕の中に抱くフランソワーズの様子がどうしてもおかしいと思えて仕方ないからだ。


好きな女を抱きたいと思うことに、後ろめたい気持ちはない。
彼女も同じ気持だと確認し合った仲なのだから。



弱っている彼女を無理矢理に自分のモノにするほど、飢えてはいないと、信じたい。

偶然が重なった状況(チャンス)なのかもしれないと言う素直な考えは夜空の星のように瞬き、腹奥に住む獣はその空に向かって吠え続けている。
しかし、ジョーはそれらに耳を塞ぎ、瞳は腕に抱いているフランソワーズへと集中させていた。

まばたきも、なるべくしない。
刹那の暗闇に映しだされる被写体は、以前に一度目にしたソレよりもハッキリとすべてを晒している。
そして、自分はその肌に、触れてしまった。


「・・・・ジョー・・・・・離して・・」


今の自分は009として対応すべきだと意識を変えよう。
いままで無意識に切り替えていたことを、意識してそれを求めたが、上手くいかない。


「・・・」
「お願い・・・、」
「・・・・・・」


上手くいかないどころか、009である自分が急速に離れていく。


「・・ジョー・・・お願い・・・」
「無理だよ・・」


フランソワーズの願いを耳にしていても、躯はそれに反した動きをする。
頭からはちゃんと命令していた。
腕を離せと。

フランソワーズから、離れろ。と・・。


「・・・離れ、ない」



体重がかかったジョーの躯を、不利な体勢から支えて押し返すことはできない。
そのまま、重力にしたがって傾いていく。

深く沈んだマットレスの一部分が、縦に薄く伸ばされた。
薄い夏用の掛け布団を一枚挟んだ、躯が重なりあって横たわる。
全身にかかる、ジョーの体重。

背中に感じる、使い慣れたベッド。
直線で見つめるルームライトの光を背負った、たくましい肩。

すり寄せられた頬の感触。
濡れた髪に届かない、斜め上にある、枕。


ジョーの左腕が、動いた。
掛け布団の中に、風が入る。




直接、触れられたのは、二の腕だった。
なぞるように、肩へと滑る。

一度は自らの手で隠した、白く眩しい丸くて、想像以上に華奢な肩を露にする。
乗せられていた体重が軽くなる。すると、フランソワーズの左耳横に、躯を浮かせるための支柱となった腕。

フランソワーズの肩の形を確かめるように滑る、全神経を中々させっている指先が、鎖骨へと流れ、首を上り、顎を捉えた。




見つめ合う瞳に映し合う、お互いの顔。

今の状況がわからないほど、子どもではない。
子どもだと、言い訳する理由もない。


「・・・」
「・・・」


ジョーが先に、まばたきをした。
追って、フランソワーズが、2度、繰り返した。

「・・・こんな・・改造、・・・された、躯n・ぁ・・、の、・・」
「・・・・俺も、だよ」
「いいの・・?」
「・・・・・ダメ、なのかい?」
「j・・お・・・は、・・」
「俺は?」
「・・・・こんな・・から・・で、・・許して、・・くれる?」
「・・・・・フランソワーズ・・」






『篠原当麻に何を求めていて、それとおなじものを、なぜジョーに求めない?』




ジョーはフランソワーズの顎にかけた手の親指で、震える彼女の唇を押した。
もう、それ以上、話す必要はないと。

青から零れ落ちる幾筋もの雫が、濡れた亜麻色の髪に交じる。
押した指先に柔らかく振動する震えを止めることが出来ず、ジョーは、震えを吸い取るように、自らの唇をあてた。
重ね合せるだけの行為が、次第に、角度を変えて啄むように、離れては合わさる、皮膚一枚の距離感を保ったキスを繰り返し、繰り返し・・。


「j・・ぉ・・」


切れ切れの声がキスの合間を埋めていきながら、繰り返し・・・。
掛け布団1枚の間に隔たれた躯を、ピタリと寄せて抱き合いながら。


キスが、フランソワーズの唇を和らげた。


「・・ぁ、いたい・・・・」


自分が、フランソワーズよりも一足先に経験していたことにジョーは幸せに感じた。
フランソワーズのこころの淀みをすべてを受け止めてあげられるだけの余裕が自分にあることを、幸せに感じた。


「・・・かれお・・・利用して・・・・た・・・」


そうなるための自分を、ずっとフランソワーズが支えてくれていた。
そして今、自分はフランソワーズを、支えている。


「わか・・・て。・・わかって・・いたの・・・」



触れ合う唇と唇の空間を共有して。







「ど・・して・・、j・・ょ・・わた、s・・・さい・・てー  なの、に・・」



フランソワーズは何も身につけない生まれたままの姿で、ジョーの腕の中、こころの中の淀みを解き放つ。
言葉にできるだけの言葉を、伝えられるだけの、想いを、片言の表現力しかなくなった震える思考で、一生懸命に、口にした。


「自分を最低だなんて・・言わないでほしい・・・キミは・・俺が、その・・」


ジョーはただ、頷く代わりに、苦しみを吐き出すために震える唇を慰めるように、重ねていった。





「お互いさま・・だと、思う・・俺も、フランソワーズも・・・篠原も、・・みんな・・・、・・傷付き合い、傷つけあいながらも、生きていかなくちゃ、いけないんだ・・・」







ぬくもりが、融け合う。

















フランソワーズの声が途切れて、塩からくなったキスだけが淡々と続いた中、ジョーは言った。


「・・・・明日、・・二人で、・・たこ焼きでも、食べに行こう・・か・・」


泣き咽て揺れる肩を撫でた。
やっとのことで微かに唇の端で微笑むことができるようになったフランソワーズの額にキスを一つ贈り、「おやすみ」の声をかけて、ジョーはフランソワーズの部屋を出る決心を固めた。

ベッドから降りた先に開けっ放しで忘れられていたドア。驚きと焦りに戸惑うジョーの後ろ姿を、涙で濁る視界のまま、見送った。















===27へと続く。
















*ブラコン卒業への第一歩。
そして、よく我慢した!!と9を褒めてやってください・・・。で*

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Little by Little・27
(27)




泣き寝入ったフランソワーズの部屋を出た廊下から、見下ろせる玄関先の広間。
真上にある明かり取りの窓を染めていた藍色が消され初めていた。


「明日じゃなくて、今日だった・・」


すでに太陽は上り始めていた。

ジョーの足は、2階から地下へと進むはずだった。しかし、足はリビングルームで止まる。
チラリと視線で見たL字型の白い革張りされたソファ。
誰も座っていない、そこへと意識を失うかのように、ばたり。と、倒れこんだ。
体重がかかった分だけソファから躯がはねた。冷たい皮の感触と香り。

膝から下はソファに乗りきれずに、2本突き出している。


「泣き虫・・」


いまごろになって頬を伝っていく塩辛い水は、フラソワーズのものであるはずがなかった。
フランソワーズのために”強い”男になるんだと、決めた自分はそう簡単に彼女の前で涙を流すべきではないと判断したからだ。


フランソワーズからあやめ祭3日目の夜(little23)に言われたことと、ほぼ同じ内容の言葉を聞いた。

彼女の思考は出口のない袋小路をグルグルと彷徨っている。それは今に始まったことではない。




ーーー無理矢理にでもジャン・アルヌールに引きあわせた方が・・・いいのか・・・な・・。


幽霊島から逃れたときにも、一時的に訪れた平穏の時間にも、それはジョーの脳裏をかすめていたことだった。
アラン・モルディエ事件の後にも同じように思ったことだ。そしてその考えをフランソワーズにもすでに伝えてもある。


「・・・・今はやっぱりまだ・・黙っていた方がいいのか?」


ジョーはアラン・モルディエに調べた延長線でジャン・アルヌールについて調べを終えていた。
誰にも告げず、独りで。


彼は、アランが言った通りに生きていた。
それはイワンからフランソワーズにすでに伝えられている情報である。
ジョーも調べ始める前から彼が生存していることだけは知っていた。

ここからは、自分以外は誰も知らないだろうことだ。
イワンは知っているかもしれない。
もしかしたら、アランの件を調べていた仲間の誰かが事のついでとジャン・アルヌールについて調べていたかもしれない。
彼とは少なからず、繋がっていたのだから。けれど、誰もそのことについては語らずに黙していた。




フランソワーズがBGの手に堕ちた後。

ジャン・アルヌールは軍を退職して知り合いの伝手を頼り、パリ近郊の小さな探偵事務所に勤務した。
軍で鍛えた体力はボディーガードや警備などに最適だったらしい。
探偵を務める傍ら、その職業と情報網をふるってフランソワーズの捜索にすべてを捧げた。

結婚は遅かった。
探偵事務所を独立しないかと誘いを断ると同時に、仕事を通じて知り合った弁護士の女性と結婚。
事務所を退職した後は、妻の仕事をサポートする主夫となり、育児や家事をする傍らフランソワーズの捜索を続けた。

ジャン・アルヌールには子が二人いた。
そのうちの一人、次男はダンサーとしてイギリスのバレエ団でドゥミ・キャラクテールとして活躍しているらしく、彼がジャンとアランを繋いでいるようだった。

ジャンは弁護士として母親の後を追う長男夫婦に住んでいた家を明け渡した。
その後パリへ戻り、いつでもフランソワーズが帰ってきても良いようにと、軍を退職後に借金をして買い取った、フランソワーズと二人で暮らしていた同じアパルトマンの同じ部屋で妻と二人で暮らしている。
変わらず、最愛の妹、フランソワーズ捜索の手を休めることなく。


彼は、待ち続けていた。

アランが言った通りだった。










話すタイミングはいつでもあった。
ミッションが始まる前、あやめ祭、終わった日、そして、先刻も。

兄、ジャン・アルヌールについて知れば、現実に今を生きて存在していると実感できれば。
知ることで、フランソワーズの何かが変わるかもしれない。

そう思うも、できずに今までずっと調べ上げたことを胸に隠したままだった。





ーーー彼は Fanchon と どんな声で呼んでいたのだろう。



手に入れた写真は小さな地方紙の切り抜き。
ジャンがまだ、探偵事務所に勤務していたときのものだ。町の警察署から感謝状を贈られたという、記事。
質のよくない紙と雑な3色印刷だったが、彼の姿を十分に把握することができた。


うつ伏せにソファに預けていた躯をゆっくりと回転させる。濡れた頬がぬるりと、革張りのソファの上を滑った。
唇をかすめた塩辛い味は、フランソワーズとのキスを思い出させると仰向けた躯で独りごちた。同時に、自分の行動を思い出して、喉奥が呻く。

腹側にははっきりとフランソワーズの感触が残っている。
ジョーの体温を急に吸った、ソファに触れている指にも、涙で濡れた唇にも、触れ合っていた頬、耳、髪、すべてにフランソワーズを感じている。


「きっと同じ亜麻色の髪と空色の瞳なのだろう・・な・・」


頭上のキッチリと閉められたカーテンを、首を反らして逆さまに見上げた。

ぴったりと閉ざされたリビングルームの遮光カーテンはその役目を果たしている。
夏の日差しをまともに受け入れてしまう、壁一面の見晴らしの良い窓が仇となり、室内の気温をオーブンレンジの如く熱っするのを避けるために取り付けられていた。





街はずれの海岸沿いに隠れるように建てられた洋館。
そこには小さくギルモア研究所と言う表札が掲げられている。
長いドルフィン号での生活に終わりを告げて、定住の地と決めた場所はアジア圏内にある島国だった。

人の手から久しく忘れられていた洋館を、少しずつ住める形を整えていった。
邸に暮らし始めた季節から数えれば、まだ1年経っていないリビングルーム。


反らした首を元に戻して上半身を押し上げるように躯を起こし、着ていたTシャツの腹部分を掴んで、ベタつく頬と目を拭った。

拭ったその瞬間から、涙は流れる。


「そんなことができるなら・・とっくに、博士が・・・・・」


人間に戻れる方法はたった一つ。
脳移植。


そのためには拒否反応が確実にない若い”生きた”健康体が必要だった。
ギルモア博士から聞かされていたことがあった。

それは助手として、ジョーがギルモア博士の技術を継ぐ決意をしたときだった。

BGの科学技術力で人間のクローンを作ることには成功していた。しかし、時間がかかりすぎる。
人一人を成人させるためには、20年の歳月が必要だ。量産型サイボーグソルジャー用の人間を生産するにはコストと時間がかかり過ぎるために、結局は”人さらい”的にサイボーグ化する人間を必要とした。

研究は進み、製作時間の短縮が図られたらしいが、その後の情報はないらしい。




00メンバー全員分、サイボーグ化する前に遺伝子・生殖細胞が”オリジナル”から摘出保存されている。
脱出計画とともに、00ナンバー全員の必要と思われる研究資料やそれらに関わる物全て”ある場所”に隠されている。
”ある場所”については、ギルモア博士もイワンも教えてはくれなかった。ただ、存在することだけを伝えられた。


その事実を知っているのは、ギルモア博士、イワン、そして、自分(009)の3人のみ。
他言無用を言い渡された上での情報だった。


「ジョー。はっきりと言っておく。お前たちを生身の体に戻せないことは、ない。・・・可能性は、ある」


止まらない涙の量が増える。


「・・・だがしかし、そのための”犠牲”が生まれること、わかるな?・・・たとえクローンをこさえたとしても、その”クローン”を・・お前たちに見合った年齢にまで育て上げなくてはならない。・・・”そのため”だけに”生かされた人間”だとしても、そこに命が、人格が、形成される」



他人の体では意味がない。
フランソワーズが、フランソワーズのまま還らなければ。

しかし、ある一つの希望をジョーは見出していた。

再生医療として応用されようとしている技術。
個体全身を作製するクローンではなく、必要な部位のみのクローン化、移植。

それならば時間がかかるけれど・・”まだ”フランソワーズなら可能性が見出せるのではないか。
その案をギルモア博士へと提示する勇気がない。きっとすでに思いついたことくらいあるだろうから。

しかし、その案が通ったとしても、すべてジャン・アルヌールが生きている間には”間に合わない”のだから、考えること自体が無意味だった。



両腕を支えにして、ジョーは上半身を起こした。

目線の先に今は静かに冬の季節を待つ暖炉があった。
その上の壁に棚がいつの間にか取り付けられて、統一感のないゴチャゴチャしたモノが置かれている。

いくつかは、写真立て。
いくつかは、誰かがどこかしらで買ってきた土産品。
いくつかは、被ってしまい、本棚からあぶれた本。
いくつかは、リビングルームに置きっぱなしにされてた、忘れモノ。

使われていない花瓶に投げ入れら得ている安物の造花に、なぜかぶら下がっている短冊。観終わったDVD、ケースなしなど、無法地帯となっていた。
そんな整理さえていない雑多な風景が生活感を演出している。


視線を暖炉とは反対側、近くのグラスへと移した。ガラス作りのローテーブルに置かれたままになっていた、グラスが3つ。少し距離を置いて雑誌が数冊積み上げられている。一番上には見慣れないバインダー。
それが津田海の持ち物だと一目でわかった。

”海”と書いた、筆文字調のシールがペタっと貼られていたからだ。


彼は大学への進学を決めている。
希望していた大学を変更するらしく、それに応じた勉強を始めると聞いた。

津田海が志望校を変えたことによって、偶然にもピュンマが希望しているいくつかの大学のうち、1つと重なった。


「・・・大学、か・・・・・」


高校に入学してすぐに提出を求められた進路希望表に書き込んだのは、どこだったか。
ジョーは滅多に思い出すことのない時代を振り返る。


記憶の奥底から手繰りだした高校指定の制服。


「ファンション、送って行くよ」


それを着ている、フランソワーズに違和感なく話しかけた。


「ジョー、今日はお夕飯を食べていかない?」
「・・・お兄さんがいるんだろ?」
「兄は・・、ずっとお仕事、お仕事で・・昨日も、一昨日も、・・もう、ずっと長い間・・・帰ってこないわ」













####

眠れない夜を過ごした。
カーテンの隙間から見える白い光が、鬱陶しいと思ったのは初めてだった。

津田海の言葉を反芻しながら、最後に見たフランソワーズの笑い顔のマスクでもつけているような、不自然な笑みを再生させ続けている。
瞼を上げているのか、降ろしているのか、よくわからない曖昧なまたたきを繰り返しながら、瞳に映っている天上は脳へと情報が送られてはいない。


「起きなきゃ・・・」


夏の明るい月が高くなったころだったと、当麻は不意に思い出す。
どこか遠いところで聴き知っている声が聞こえた。けれど、その声が象る単語は聞き取ることができなかった。

声に反射して咄嗟に体を起こした勢いでベッドは降りてみたものの、部屋を出てその現場を目にしたり、居合わせたりすることを避けた。

避けたくて避けたんじゃない。
こころは部屋を飛び出していた。
けれど、躯はこころに追いつかず、部屋の中で固まっていた。



そんな自分だから。
選ぶべき行動は1つしかなかった。



「・・海の言うとおりさ」


身を起こしたついでにライティングデスクに置かれた茶封筒を手に取り、ベッドに戻った。
ベッドの中、ナイトスタンドをOFFにした暗い部屋の中で中身を確認する。



それは、未来への選択肢。

『トーマ、これから先の未来に、”自分の力ではどうしようもない出来事”から逃れられなくなったとき。”生きていくために”誰かの力が欲しいと思ったら、』





これは、未来への一つの選択。

『・・・今から言う番号へ電話しなさい。今、”言う”から、その番号を暗記しておくれ。絶対に”形に残したり”人に教えたりしてはいけないよ?私が君にしてあげる・・祖父らしいことは、これくらいだから。』





立ち止まることができない、選ばなければならない明日への道。

『ERIKOという女性が電話に出るだろう・・彼女は必ず”君”になら力になってくれる。安心してすべてをお願いしなさい』




当麻は手に持っていたカタログ、パンフレットに案内書、そして同封されていた一通の手紙を茶封筒へと戻した。


ーーーおじいさまがお亡くなりになられて、・・おばあさまはきっともう二度とぼくの前には現われない。
・・・さえこさんとは、もう”親子”じゃなくて・・父は・・今後もきっと会うことはないかな・・。
産みの母親がいたなんて言われても、まだ実感がないし、・・。その人の祖父母という人達が、ぼくとの養子縁組を・・・受け入れられる保証もない・・。


「・・・ああ、でも」


ーーーお金で解決できるのだったら、・・そっか。さえこさんの希望通りになる・・・。


ベッドから降りた当麻は、部屋の角に避けていた2つのスーツケースを部屋の中央へ並べて開いた。


「・・・ERIKOって誰だろう?日本人、だよね・・」


意外に荷物が多いことをちょっと面倒臭く感じながら、まず初めにアルベルトが置いていった、”未来への選択肢の一つ”が詰まった茶封筒をスーツケースに入れた。


ーーーちゃんと、覚えているかな・・番号。


フランが好きだった。
今も気持ちは変わらず、フランが好きだった。


スーツケースの1つが大体埋まった頃、当麻はベッドサイドのテーブルに置かれたデジタル時計へと視線を投げた。
荷造りを中断してカーテンを開ける。
明るい太陽の光に晒された部屋に瞳を細めながら体をクローゼットへと移動させる。
開けっ放しになっているクローゼットの中に立てかけるようにして並べたスケッチブックを手に取り、それをなんとなしにパラパラと捲った。

スケッチブックの中には、たくさんのフランソワーズがづいている。
一週間ぶりに見たフランソワーズは、スケッチブックの中の彼女たちよりも表情が固い。


”両思い”であるはずのフランソワーズはスケッチブックの中の”片思い”だった彼女たちよりも輝いていなければならないのに。



ーーーそれができないのは、ぼくのせいだ。
   そして、そんな優しいフランだから、好きになった。
  




フランソワーズを描く間にときおり筆を走らせて描いたギルモア邸の住人たちの姿も目に入る。それは、あやめ祭が始まるまでの間、毎週末をギルモア邸で過ごしていた時期に描いたものだった。
繰り返してページをめくっていく手に持つスケッチブックの中に、島村ジョーの姿が見当たらなかった。
意図的にそうしたのではなく、スケッチブックを手にしているときの当麻の前に、ジョーが姿をみせなかっただけである。


「・・電話、してみようか・・・」


しかし、描かれていないスケッチブックの中に島村ジョーは存在する。
描かれているフランソワーズの表情と視線が、同じ紙の上に島村ジョーの存在を表しているからだ。
当麻の前にいなくても、島村ジョーが”近く”にいるときに描いたフランソワーズと、いないときに描いたフランソワーズは、日付やスケッチした状況をメモした文などを読まなくても一目瞭然だった。


「・・そうだった。島村に・・・祖父(トーマス・マクガー)に関することは全て教えて欲しいと言われてたんだ」


当麻は、スケッチブックの中の1枚を破った。
その一枚を、ライティングデスクに置いた直後、ドアをノックする音に返事をした。


「はい、起きてます。けれど・・まだ着替えてないので、・・・」


病み上がりなんだから、気にしないでいいんだぞぃ。と、言う声はグレートの声だった。


「あの、お願いがあるのですが・・・」


ドア越しに会話しようとしたけれど、当麻は一拍置いて部屋のドアを開けた。


「どうだ?今朝の気分は?朝食のお誘いなんだがな・・あ?!」


招きいれたグレートの瞳は、部屋の様子を知り一瞬だけ驚きに瞳を見開いた。


「・・・・その痛みはな、みんな一度や二度、いや・・数じゃない。生きている限り、一生付き合っていかなければいかん、痛みだ」


視界に捕らえる開いた状態のスーツケースに向かって独り言のように、グレートが言った。
役者なだけあって囁くような小声であったにも関わらず、当麻の耳へと届き、するっとこころに入っていった。


「痛みに種類なんてない、”ただ痛い”。意味も理由もない。そしてその痛みは、人を豊かにして思慮を深めるきっかけとなる」


斜め後ろに立つ当麻へと躯を回転させて、彼の真正面に対峙した。


「・・グレートさん・・・・」


そして、当麻を昨夜飲んだアルコール臭が抜けていない躯で抱きしめた。


「・・・まあ、痛みを”快感”に感じる性質を持つのは、考えもんだが・・・芸術家になるなら、それくらいの勢いが必要だなあ」


当麻は、グレートの肩を借りた。


「・・ぼくは・・・島村に、負けたとは思ってません。けれど・・・」


借りた肩を熱く濡らしながらも、強がってみせた。


「去り際を、心得ていない、わけ、・・じゃ、・・・・」
「・・・申し訳ない、当麻くん」
「謝らないで・・ください。・・それは、おかしいですか、ら・・」




世界は広い。
必ず、フランソワーズ以上の、当麻くんに似合いの女性と出会えるさ。


「・・・グレートさん・・・・、この、痛みに・・・効くクスリを・・、ギルモア博士はもってませんか・・・・」
「ないない・・・。さすがの博士もそればっかりはな。それに、そんなもんがあったら、みーんな生きているのがツマラン人生になっちまう」
「・・・そうですか」
「だが、敢えて言うなら。ジョーを一発殴ってみたらどうだ?多少は、マシになるんじゃないかい?」
「・・殴ったら・・・ぼくの手の方が、怪我を・・・しそう、です」
「そんときゃ、もうしばらくココ(邸)にいればいいんじゃないか?・・・出て行くのを延期できるぞ」


ふっと口元で笑った当麻だが、はっきりと言い切った。


「・・・・ぼくはフランが好きなんです・・だから」


わかっているさ。と、当麻が口にする前に力強く頷いた。














####

当麻を朝食に誘いに行ったグレートはなかなか戻ってこなかった。
そのまま放っておけ。と、ダイニングテーブルに着くアルベルトが心配する張大人に言った。

食後の珈琲はリビングルームでテレビを見ながら、朝刊を広げて。が、定番のアルベルトだったが、今日は違っていた。同じように朝食の席についているピュンマと海も、リビングルームのソファでダラダラとテレビを見ながら今日はどうしようかと話すのだけれど、朝食後もダイニングルームに居た。


「っていうかさあ、そろそろ起こさなくていいの?」
「いつ寝たのかわからんのだから、・・仕方ないだろう」


每朝欠かさず観ている朝の連続テレビドラマが観られなかったことに、不機嫌さは表れていない。


「テレビいいの?」
「昼に再放送をする。・・・週末には一週間分まとめて放送もしているからな」
「へ~・・・」
「今朝はフランソワーズさん・・どうしたんですか?」
「そういえば、遅いね」


ピュンマは海の声に頷きならが”脳波通信”でフランソワーズに声をかけようとしたが、その行為を読まれた張大人に同じ通信を使って止められた。


「まあ、そういうコトもアルね」
「・・・・”アレ”と関係あるのかもな」


住人が現れたら朝食を皿に盛りつけて配膳するだけとなったキッチンで、張大人の仕事はもうない。
彼は自分の分の朝食を手にアルベルトの隣り、海の正面に着いた。


「アレねえ・・・。爆睡もいいところだよね、・・珍しい」
「ジェットがいたら、何かするんだろうが」
「あー・・そういえば、そういうこともあったよね!め・・・」


ピュンマは”メンテナンス中”と言う言葉を言いかけて、飲み込んだ。
そして言い換える。


「怪我してさ、ちょっと長くベッドに寝ていなくちゃいけなかったときのジョーにさ!」
「なんだ?」


数多い戦歴の中で、そんな状況は日常茶飯事だったため、アルベルトはいったいどの話しを持ち出したのか検討がつかなかった。


「ほらっマニキュアっ!」
「ああ!アレあるかっ!!」


”マニキュア”で、張大人が反応した。

「グレートがどこで手に入れたのか、スカイブルーのキラキラっとしたラメ入りのマニキュアを持ち出してきてさ!」
「なんで、グレートさんがそんなのを持っていたの?」
「グレートだからじゃないか?」
「グレートだから仕方ないアルよ」



そう言うならそうなんだろうと、今は納得しておくことにした、海。


「それでねえ、海、ジョーの手と足に塗ってあげたんだよ、ジェットが。でも下手だったから、わざわざグレートが塗り直したりしてさ」
「わお・・・。島村先輩、めちゃくちゃ怒ったんじゃない?ピュンマ」
「ところがどっこい!」


ああ、そんなことがあったな。と、癖のある笑い方をしたアルベルトが話しに参加した。


「オレも思い出したぞ。・・・ブルーのキラキラした不気味な指のまま、まったく頓着せずに戦場に出て行ったんだ」
「えええっ・・・そんな漫画みたいなことってあるの?!」
「まあ、そんな爪くらいで何がどうなるってことはなかったアルけれどねえ」
「問題は、フランソワーズだったな」


そのときの様子を思い出した3人は明るい夏の朝のダイニングルームに笑の花を咲かせた。





「・・・ん・・・m」

リビングルームの遮光カーテンは仕事を請け負ったままでいた。
L字の大型ソファは、ジェロニモもその躯をゆったりとくつろがせることがができる、特注品。
そのソファに足を伸ばして背の部分に縋るように躯を寄せて眠る青年が一人いた。

涙を流した痕跡は、頬に張り付いた長い前髪。
寝相が良い方だとは思うけれど、寝返りをうつ広さを夢の中からでは測れなかったようだ。


ダイニングルームでいくつかの笑いの花が咲き終えて、再び張大人がキッチンへと戻ったときだった。


「ぅわっ!」


滅多に聴くことのできないマヌケな発声と、ドスン!と尻餅をつく軽い音がフローリングに響いた。


「???」


堕ちる瞬間の不気味な浮遊感と同時に受けた衝撃に目覚めたジョーは、いったい自分の身に何が起きたのか判断できず、呆然とソファとガラス作りのローテーブルの間に挟まっていた。


「なんで、・・・こんなところで、・・俺は・・・」
「知るか」


ダイニングルームから駆けてきた家族と、そのゲストにもう一つ笑いの花を提供することになったジョーは、差し出された冷たい手にひっぱられながら立ち上がった。


「ジョー、顔でも洗ってッキリしておいでよ」
「きっと疲れてたアルヨ・・そのままお風呂に入ってゆっくりするヨロシ。着替えはワタシが部屋から持ってきてあげるネ」


乾いた涙で引き攣る顔を洗うためにバスルームへと向かった、その先でジョーは報告を受け取った。













====28に続く









前回が前回だったので、9さんは夢に見るのって( ̄ー ̄)ニヤリと思っていたら。
3を女子高生に仕立て上げていたのでありました(笑)

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cute, cuter, cutest!




「ねえ、今日のビーフストロガノフは」

夕食の後片付けをしているときだった。
スポンジにたっぷりとディッシュソープを垂らして、念入りに泡立てるためにキュッキュと揉み込む手に集中していた私は、彼の視線がその部分を凝視していたことに気づかなかった。

「前よりもグッと味が濃厚になったね」
「そうでしょ?」

ワンプレートで済ませられた今夜の夕食は、シンクに積まれる食器の数が寂しくさせて、洗いがいがない。
いつもと同じ分量のディッシュソープでは勿体無かっただろうか。

「今夜のはもちろんだけど、前のときのも十二分に美味しかったよ」

私の隣りに立つ彼の手には準備万端という形で、ディッシュ用のタオル。

「あら、嬉しい」

手早く4人分の白のラウンドプレートにスポンジに滑らせる。
鍋の中にはまだ2人分ほどの残っているので、そのままにしておく。

「美味しいビーフストロガノフのお礼にさ」
「なあに?」

手にしていたスポンジを100円ショップで買った、ぺたっとシンクにひっつく吸盤がついたプラスティックのケースに泡を落とさないままに置いた。

「髪、切ってあげるよ」

小さな滝に泡だらけのラウンドプレートをくぐらせた。
冷房の効いた部屋でも真夏日が続いているので、水の感触は心地良い。

「・・・・髪を?」

丹念に泡を洗い落としたラウンドプレートを、隣りの彼に渡した。
同時に言葉も返した。

「そう、キミの髪をね」
「アナタが?」
「僕が」

4枚分のお皿越しに交わした交渉は、一方的に成立させられた。

「僕がカットしてあげる」







おやすみなさい。の言葉を2つ灯して自室に引き上げた。
バスルームで食器を洗うときよりも倍のソープを使い、時間をかけてスポンジを躯と合わせた。
意識したわけではないけれど、いつもよりも5%は多くシャンプーを使い、コンディショナーを使った時間も昨日よりも長かった。

タオルドライをしながら、鏡に映る自分の髪を観察する。

「あら・・・」

手では感じられない感触を瞳で捉えた。

「色が・・抜けて・・・」


引きちぎられて、でもなく、焼けてしまって、でもないために、毛先は縮れてはいなかった。
それは後ろ髪、右側に跳ねる癖がついた、一部分。
亜麻色と言われる色で生まれて、そのまま今も変わらない髪色が不自然に変色していた。

「剥げてしまったペンキみたいね」


いや、それよりも。
ビーズ手芸で使う、ナイロンコードワイヤーやテグスのような・・透明な。


人形の、それだ。


部屋つきのバスルームから出てナイトスタンドの明かりだけをたよりにベッドへと滑りこむ。
ドライヤーで乾かすことに躊躇した髪は生乾きで、首に触れると気持ち悪かった。だから、逆さまになった姿のような髪型にした。


「・・・気にしてくれたのね」



腕を伸ばしてスタンドライトを消した。
そのままの状態で面白くもなんともない天上を眺めながら考える。



ーーー髪を切る。



生きている限り、いったい何回その行為を繰り返すのだろうか。
数えたことはないけれど、2,3ヶ月に一回に散髪したとして、人生が80年。

1年は12ヶ月で、5~6回。×80=約400~500回


「意外に少ないわね」

女性なら、もう少し多いだろう。
イベントなんかも加わって、回数も職業で変わってくる。

枕に敷いたタオルが首に直接当たる。
いつもと違う感触に顔を傾けて鼻を近づけると、お気に入りのシャンプーの香りがした。







ちょっとだけドキドキする。
髪を切るという行為は久しく体験していない。



ーーー本当に切るのかしら?


ジョーは髪をちゃんとカットできるの?
そんなことをするよりも、博士にお願いして新しい髪を・・。







『僕がカットしてあげる』


心臓が、彼の声に反応している。
今のドキドキと似た経験を、薄くなった記憶の中から拾いあげてみた。

兄と同じ散髪屋さんから卒業した日のことだ。
お友達と二人で手に手をとって訪れた、初めての美容室。
椅子の坐り心地の良さと楕円形の鏡の大きさ。オシャレなお店の内装に、雑誌に出ている人そのままの美容師たち。
交わされる会話に耳を大きくしながら、何について話しているのかさっぱり理解できなくて、同じフランス語のはずなのに、それは宇宙語のようだった。

鏡に映った自分は背伸びしていた。その場所に似合った人であろうと懸命にすましている。
そんな懐かしい私を、私は眺めていた。











朝食を済ませた途端に、彼は逃げるようにダイニングルームから出ていった。
その素早さは、後片付けのお手伝いを言い渡される前に。と、いう感じが出ていて微笑ましい。

私は一度だって朝食の後片付けを”手伝って”とお願いしたことはないのに、ね?



ダイニングテーブルを拭き終えて、使った布巾を洗って専用のハンガーにかけた。
これで”朝”の一仕事が終了する。
エプロンは使わないので、一仕事を終えた勲章のような水しぶきが服についていた。

朝食の後片付けの後は、2日に1度の洗濯へととりかかるのだけれど、今日は2日に1度の洗濯をしない日。
そういう日は、クイックルワイパーか掃除機か。
最近放ったままの客間も気になる。
玄関前の広間もそろそろ手を入れなければ、と今日のスケジュールを考える。

そうやって後片付けを終えたキッチンにぼーっと立ち、コンロの1つに意味もなく視線を合わせていた。
コンロ周りは食器洗いの後にいつも拭き掃除を忘れないので、綺麗だ。


ーーー換気扇のフィルターを交換したほうが・・


視線をついっと上にあげたことで、吸い込みの悪さが気になっていたことを思い出す。

「フィルターの交換なら、僕がしておくさ」
「ジョー?」
「リビングの掃除機も午後に僕が引き受けるし、玄関の打ち水も、・・・キミが今日することの半分は僕が引き受けるから」
「どうしたの?」

いつの間にそこに居たのだろう。
こころの中で言ったはずの言葉に返事が返ってきたので、驚いて少し心臓が痛かった。

「どうしたもこうしたも、準備ができたから呼びに来たんだよ」

スキップでも踏みそうな軽快な足取りで、彼はコンロと私の間に立つ。

「準備って?」
「やだなあ、忘れたのかい?昨日言っただろう?」

深い二重まぶたのジョーの瞳がより近くなった。

「忘れてはいないけれど・・本当に切るの?」
「そうだよ」

超がつくゴキゲンな彼の笑顔が、私を仄かに不安にさせる。

「ちょっと揃えるだけだから」

私の手を握った彼の手の強さは、”断る権利”がないことを示していた。

「任せてよ」











スキップを踏みそうなほどに軽快な足取りの彼に引っ張られていく私の足は、重たいと言うほどではないけれど、気後れしてしまい鈍かった。


玄関を出て、裏庭と呼んでいる車庫がある方角。海側ではない森林側へと引っ張られて行く。
今の時間はちょうど屋敷が日差しを遮り大きく影が伸びていた。

潮風が屋敷を避けて様子をうかがいに来ると、邪魔するように木々の枝が大きく揺れて、光の斑点がパラパラと屋敷の影に溢れる。
長い時間、影になっているだろう位置に、客間にあるロココ調のシングルチェアが一脚置かれていた。
同じ部屋から連れてこられたと分かる、引き出しの中は空っぽのままにしてあるために飾り棚と呼ぶに相応しい、部屋全体のバランスを考えて置かれていただけの腰くらいの高さの細いチェストがあった。
客間の椅子から正面に2人分弱ほど空けて置かれている。
その上に霧吹き、ハサミ、櫛、など髪を切るのに必要だと思われるものが並べられていた。

「ようこそ、島村美容室へ」

敬々しく、お姫様でもエスコートするような紳士的な振る舞いをする彼に促されて、椅子に座った。

「全部アナタが用意したの?」

急に改まった物言いをする彼がこそばゆい。

「もちろんです。・・・今日は、毛先を揃えるくらいでよろしかったでしょうか?」

くすぐったくて肩をすぼめて私は震えた。

「では、首にタオルを巻きますので、苦しかったらおっしゃってください。・・失礼します」

空っぽなはずのローチェストの一番下から新品のスポーツタオルを取り出した。
そんなことくらいで、私は魔法を目にしたように思えた。

「苦しくないですか?」

彼の手が、慣れているんだよ、と言うように私の首に絶妙な力加減でタオルを巻きつけた。
私は口は一文字に結んで擽ったさに堪えながら、彼の声には微笑むことでしか返事できない。
首に巻かれたタオルから新品の香り。

そうだわ。

確か、いただき物のタオルセット。
まだ取り替えるには早いとバスルームの脱衣棚に仕舞っていたものだ、と思い出した。

「前を失礼いたします」

同じ引き出しから取り出されたのは、ビニール素材と思われるケープだった。
いったい屋敷のどこに美容室で使われるようなケープがあったのだろう?

私はあっという間にてるてる坊主のように、すっぽりと椅子ごと首から上だけを残して包み込まれた。

「暑い?」

包まれたところで、ふと”いつもの彼”が顔を見せた。

「大丈夫よ」

いつもの彼に、固くむすでいた唇が解ける。

「よかった、暑くなったら言って」

ケープをうなじよりも低い部分で留めた彼は、再び”島村美容室”の美容師となって、チェストの上にあった櫛で髪をときはじめた。











外されたカチューシャは、チェストの一番上の引き出しに宝石商のような勿体ぶった手つきでしまわれた。
彼が手にしているガラス瓶タイプの霧吹きは見覚えがある。
見覚えがあったけれど、どうして屋敷にそれがあるのか深く考えたことはなかった。

霧吹きのシュッシュッと言う音が気持ち良い。
濡れていく毛先を支える彼の手は触れてはいないけれど、優しいことがわかる。


肩甲骨にかかるかどうかの長さで、肩にあたって右側に流れて跳ねる癖がある以外、何も特別なことのないストレートの、私の、・・・髪。



霧吹きから離れた手が、チェストの上に並べられていた鋭く光るシルバーの髪切りバサミに届く。

「大丈夫だよ」

私の視線の動きを読んでか、彼がわざわざ耳元まで近づけた唇でささやいた。

「切りすぎたりなんてないし、不恰好にガタガタになったりもないから」

ジョーの自信満々な声に、切りすぎたり、下手すぎてガタガタな髪になってもいいような気分になった。
そうなったら見兼ねた博士が、きっと”新しい髪”に取り替えてくれるだろう。

「お客さま、僕の”腕”を信用してください」

心を読まれてしまったみたいだ。
ケープに包まれて首から上だけの存在になっている私は、真面目な顔で深くうなづいた。

「フランソワーズ、リラックス、リラックス・・・ね?」

ハサミを持っていない方の手で私の肩を撫でた。
ケープの中で大人しく固まっている両手両足は1mmと動いていないのも、気づかれた?
ふうっと胸に溜めていた息を吐き出して、初めて背もたれがある椅子だったことを思い出す。

「3cm・・いや、もう少し切った方がいいみたいだ、ですね」

シャキっとした音は、ハサミの切れ味の良さを表す良い音だった。



櫛で整えながら長さを図る。

彼の手の動きに迷いはないと、ハサミが刻むリズムでわかる。
さすがにプロの美容師のようなハサミの動きではないけれど、”プロ”の美容師がどんなふうにハサミを運ばせていたのか、思い出せない。

動かないで下さい、と言われたので、固定されてしまった視界に映る面白くもなんともない見慣れた森林と左端に映る車庫にはすぐに飽きた。

鏡があれば、髪を切る彼の様子をじぃっと観察できたのに。
これだけの準備を整えてくれていながら、姿見は用意してくれていないなんて、わざとだろうか?
チェストの上を躯を動かさずに視線だけで何度か確認してみたけれど、そこに鏡は置かれてはいなかった。


ーーー切り終わってからの、お楽しみってこと?






時間が経つにつれて次第に風の入らないケープの中に熱が篭もり始める。
熱を逃そうとしてちょっと躯を揺らして両手でケープを少し浮かせて風を通すように試みた。

「失礼します」

彼は敏感に私の動きに反応する。
手にしていたハサミと櫛を、チェストの上に置いてさっとケープを外す。落ちた髪を払うために外しました、というパフォーマンスをつけてくれた。

バサっ!と彼がなびかせた、ケープ。の、音と一緒に、突然、雷が耳元で落ちたような音量で蝉が鳴き始めた。
追いかけてくるように、波の音。
近くの国道を通る車のエンジン音も、遠心力に似合った強弱をつけて聞こえ始める。

ずっと朝から耳にしていた、慣れたBGMが、今のいままで忘れていた。

私は自分が思っていた以上に緊張していたようだ。

強く吹いた潮風がとても気持ち良い。
両手を上げて、躯をほぐすように伸びをした。






「ジョー?」

”終了”の声を聞いていないので、まだ終わっていない。と、思う。

「?」

ケープをかけなおしてくれるどころか、いつの間にか彼の気配が背後から消えていた。
固定されて疲れた腰を鳴らすようにひねって振り返る。
彼の姿はそこになく、ぽつり。と、椅子に座って首にタオルを巻いた私だけだった。
使われていたケープは椅子の背に遠慮がちにひっかけられている。

「え?・・・なんでいないの?」

椅子から立ち上がろうとして、久しぶりに伸ばした膝が言うことをきかなくて、情けないことに少しよろけた。

「フランソワーズ!」

その姿をバッチリ彼に見られてしまった。
手にしていたグラスが大きく揺れる。けれど、そこは彼らしく、中身の液体をこぼしてしまうような事は起きなかった。

「・・黙っていなくなるんて、びっくりするわ」

彼が戻ってきてくれたことで、よろけた躯のまま椅子に座った。
早足に近づいきたジョーが私の正面に立って、腰を曲げて顔を覗き込んでくる。

「ごめん、ごめん・・・暑かっただろうと思ってさ」

今朝、私が作って冷蔵庫にいれていおいたレモネードが彼の手にあった。

「はい、どうぞ」

私が用意すればアイスキューブとミントの葉に、輪切りのレモンの端っこに切り目を入れてグラスにひっかける。
ストローも忘れず一緒に。

「ありがとう」

手渡されたグラスは、ちゃんと冷たかったけれど、シンプルな薄い黄色の液体だけだった。











私が飲めなかった分を、彼が引き受けてくれた。
狭いチェストの上に空っぽのグラスが加えられる。

「気分転換に、前髪も少し短くしてみませんか?」

休憩終了。と、再びケープに包まれたときに、彼は秘密めいた声で、誰にも聞かれないように注意を払う姿勢でささやいた。

渇いてしまった髪に霧吹きを吹きつけられている間に、考えた。
蝉の鳴き声が増えた気がする。

「少しってどれくらい?」
「瞼がはっきりと見えて、時折眉も覗けるくらいがいいと思います」

今の長さは、二重のラインにぴったりと合っている。眉は前髪を掻き上げない限り、お披露目する機会はない。
シャキっとした音が聞こえ始めたので、ハサミが動き始めたと分かった。




シャキっ、ミーンミンミン・・・シャキっ、ミーンミンミンミン・・・

ザザー・・ミーンミンミン・・・シャキっザザー・・ミンミンミーン・・・。


パッパー・・と、クラクション。





「お任せします」
「じゃあ、・・切ろう」

太陽が移動して、屋敷の影の形が変わっていく。
だんだん影の部分が狭くなってきて、明暗のラインがハッキリ引く線が近づいていた。

私の正面に、とは言いがたい斜め前に立った彼が、残りすくなくった霧吹きの中の水を確認するように振ってみせた。

「水が顔にかかります」
「はい」

そう言いながらも、前髪をそっと手に取り、極力水がかからないように配慮してくれる。

「切っている間は目は閉じておいて下さい。危ないですから」
「はい」

冷たい霧がジョーの手をくぐりぬけ、風にのって降り注ぐ。
私は閉じた瞼の上にかかった霧だけを意識した。

後ろの髪をといてくれた時よりも慎重で、ゆっくりとした動きで櫛が上下する。
濡れた前髪から滴る雫で頬が濡れると、彼はどこからか取り出したハンカチを顔に押し当てて拭ってくれた。

いったいこのハンカチはいつのものだろう?


しっかり彼の臭いが染み付いたハンカチは、ジーンズに入れっぱなしだったのではないの?と不安になる。
ハンカチをいれていたジーンズを洗ったのは、いつだっただろう。

そんなことを考えているうちに、前髪は短くなっていく。


私はジョーに髪を切られることに、慣れ始めていた。
ゆっくりとしたハサミの動きを瞼越しに感じて薄く瞼を押し上げてみる。
震える細い視界に真剣な彼の顔がアップで滲んでいた。
ときおりシャキっと音を鳴らす光る線が邪魔をする。

落ちていく毛先が頬や目尻にひっついて、チクチクと刺さって微妙に頬がひきつった。

「・・・」

シャキっと一刀が入ると、櫛が2回、慎重に上から下へと流れ、その後には必ず彼の小指がさっと落ちた髪を払い、ハンカチが風を作った。
チクチクとした不快感に気づいてくれた彼の細やかさに、私は微笑まずにはいられない。

「笑わないで、動かれると危ないです」
「ご、・・ごめんなさい」

定規を当てたような正確さで進んでいくハサミがゴールを迎えたとき、彼はほおっと深い深い息を吐き出した。
下ろしていた瞼を上げようとすると、まだ待って。の声がかかり、少しだけ我慢する。
顔に切り落とした髪がかかっていないかを丁寧にチェックされて、もう一回ハンカチが顔を覆った。

「お疲れ様でした」

私が目を開けるのとほぼ同時だった。

「終わったの?」

せっかく目を開けたのに、視界に彼を捕らえることはかなわなかった。
彼はさっと私の後ろ側に移動して、後ろ髪に数回櫛を通した後、ケープを外し、首に巻いていたタオルも、間を開けずに外してくれた。

「うん」

くるくるっと適当に丸めたタオルとケープを、無造作に地面に落としてしまう。
もう用はない。と言わんばかりに。
そうした動きと、前髪にハサミを入れるたびに顔を拭ってくれた彼が同一人物であることがとても不思議。

「どうかな?」

ジョーがチェストの2段目の引き出しを開けて取り出したのは、バスルームに置いてある、私のではない”誰か”の手鏡だった。
面を伏せて渡されたそれを、私は胸に抱いた。

「緊張するわ」

手鏡から離れた彼の手が私の首周りを撫でるように、切った髪を払ってくれている。
今日は襟ぐりの大きく開いたワンビースだったので、カットには向いていたのだろうけれど、あまり直接触れらたことがないから、別の意味で緊張が重なった。

彼の手を払うように肩を上下に動かした。
スムーズに動いて凝りは感じない。


私は一度空を仰いだ。
首も肩と同じように凝ってはいないようだ。


私の反応が気になる様子だけれど、彼は素知らぬフリを装ってチェストの上に置いていたものを、手鏡を入れていた2段目の引き出しにしまい始めている。


椅子から立ち上がって屋敷の影から大きく一歩、跳ねるように飛び出した。そして、胸に抱いている手鏡を、そうっと覗き込む。

恥ずかしそうに笑っている、髪が短くなった私が映っている。
肩に乗るか乗らないかの長さは予想以上に切られていた。


こんなに短くしたのは、初めて。
記憶にない、短さだった。




「忘れ物だよ」

外されていれたカチューシャを手に追いかけてきた彼が、手鏡を持っているせいで手がふさがっている私のために、飾りなおしてくれた。

「似合っていて?」

鏡から視線をあげる。
超が3つ並ぶほどゴキゲンなジョーがいた。

「似合ってないわけがないよ」

鏡に映る私の前髪は、こめかみが見えるくらいに短くなって角度によって眉が見える。

「前髪は?」

私はそんな前髪をつまんでみせた。


「前よりもずっといいよ。もちろん、前のキミだって素敵だったさ・・」


彼は言葉を続ける。
私は短くなった髪の、いつもと違う自分でいることを徐々に実感してきたらしく、恥ずかしさが足の裏から沸騰し初めていた。


「素敵だったけれど、今はもっともっと・・・・」


この感覚は、買ったばかりの服を着て、ジョーの前でファッションショーをしているときに、近いようで、似ていない。


「もっと、なあに?」


もっと、もっと・・と、繰り返しながら、力いっぱいに私を抱きしめた。


「最高に可愛いよ!」
















end.









**ジョーはオールマイティーに器用なんです、な感じ。**
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バイバイ/一方通行な、正義。

例年よりも遅く、パリにも夏がやってきた。
乾いた石畳に跳ねる日差し。
セーヌ河を自慢のカメラを片手に進んでいく観光客にむけて、にこやかに愛想を振る子供たち。
夜の浅い日が始まり、開放的になった道へと大きくせり出したオープンテーブルに明かりが灯るころには、子供たちは遠い夢の世界を飛び回っている時間。

真夏の夜の夢からの招待状を丁寧にお断りしたのは、初舞台を踏んだ日だとフランソワーズは記憶している。
夜の社交界へのエスコート役は、もちろん・・フランソワーズの兄、ジャンだった。





傾けた常温のワインを冷たく感じる喉が、コクリ、コクリと気持よさそうに音を立てることを抑えられない。
解放的な雰囲気のせいか、頬を寄せてささやき合う声が少しづつ大きくなって、一石投じられた泉のごとく時間の経過とともに広まっていった。
隣りのレストランとの境目がわからないほどにテーブルとテーブルの間の会話が馴染み始めたころには、楽しい夜は明け始める。
太陽の光に露にされた目の下の濃くなったラインを気にしながら、帰宅を急ぐ女性たちが微笑ましい。



パリの夏は往々にして忙しい。

そんな忙しい合間を縫って兄から届いたディナーの招待に、お気に入りの薄紫色ベースの小花模様が散ったワンビースでお洒落したフランソワーズは、周りから兄離れができない女の子と観られて当然だった。

ジャンは、きっと兄離れできないでいる妹を思う良き兄、と思われているだろう。
もう彼を”シスコン”と揶揄する人はいない。
なぜなら、彼には夏の夜には欠かせないパートナーとなるべき女性がいるのだから。


フランソワーズはその背中にブラコンのレッテルを貼りつけても、どうせ”大人”にはなれない容姿なのだから。と、開き直ったネがティブ評価を自分に与えてしまう。
今のフランソワーズのこころがそういう状態だから、仕方がない。




「日本へ?」


ジャンが招待してくれた「FIOLA」は、親子4代続く、・・・最近、5代目候補の誕生に賑わう地元密着型のレストランだった。


「うん・・・最後に”診て”もらってから大分経つもの。・・・・とても心配してくださっているし・・そろそろかなって思ってるわ」


予約した客のみがオーダーできる、牡蠣のパイ詰めオゼイユソースがテーブルにやってきたタイミングでフランソワーズは切り出した。


「別になんともないんだろう?」


ジャンがエヴァとの婚約を公にしてからは、何かとすれ違う日々が多くなってきた、兄妹。
このタイミングで久しぶりにとる兄と二人きりのディナーは、フランソワーズにとって恵まれたチャンスだった。


「前にも説明したでしょう?・・・そろそろかな、って思うのよ」


男ばかりが寄り集まるテーブルから投げかけられる視線に、警戒しつつも自慢の妹を見せびらかすような得意げな表情だったジャンの顔が、レストランの陽気な雰囲気に似合わないテレビドラマの探偵役のような、凛々しく引き締まった真面目な表情を載せる。


「だから、・・・カラダは・・その、病気っていうか、故障・・・・・っていうのか、そういう問題があるわけじゃないのに、必要なのか?」


フランソワーズとよく似た亜麻色を短く刈った髪が、セーヌ河から抜けた風に揺れる。
河の流れが、切れ目のない声と声を縫い合わせるように埋めていく。


「健康診断ってあるでしょう?それと同じなの。・・ただアタシを診ていただけるお医者様が、ギルモア博士だけで、日本にいらっしゃるってこと」


フランソワーズは努めて明るく振舞う。


「わかる、けど・・。なあ、・・それならオレも一緒に行くっていうのは?」
「ええ?!どうして?アタシはもう”保護者”が必要な子どもじゃないわ!」


クスクスと心からおかしそうに笑ってみせた。
日本へ行く”目的”が健康診断だけだと言わんばかりの口ぶりで。


「・・・その、ムッシュ・ギルモアやお前の”仲間”って人たちに一度きちんと挨拶しないといけないってずっと思っていたからさ」


兄の取り皿にオゼイユソースの香り豊かなパイ包みの牡蠣を取り分けながら、フランソワーズは笑顔を絶やすことなく首をはっきりとした意思を持って左右に降った。


「・・・エヴァがいるじゃないの、彼女を一人にするつもり?」
「”が”じゃなくて、エヴァ”も”だよ、フランソワーズ」
「あら、ごめんなさい!」
「彼女は日本になら喜んで行くさ、バカロレア前1年(高校2年)のときに交換留学生で2ヶ月ほど、ォッカイドーに居たって聞いたろ?」
「”ほっかいどう”よ、兄さん、”北海道!”ほっ!”HO!”」
「・・・うるさい!」


上手く日本の地名を発音できず、歳離れた妹から小さい子のように言い直しを促されてしまったジャンは男として少し傷ついた。


「・・・兄さん、エヴァの体調はどう?」
「ああ、夏風邪っぽいらしいんだ」
「・・・・・風邪?・・・それなら、今夜はキャンセルでもかまわなかったのに」
「心配ないよ。お前が気を使ったり、伝染したら申し訳ないっていうだけさ」


苦笑交じりのため息は、今夜ここへ来る前に一悶着あった様子を伺わせる。
本来なら、今夜はエヴァも同席しているはずだったのだ。
週の半分はエヴァのアパルトマンで過ごすようになったジャンに、彼女は何かとフランソワーズに気遣い心配する。


「兄さん、エヴァは・・・・、本当に夏風邪?」
「ん?」


妹に分けてもらった牡蠣の香りを楽しんだところで、首を傾けた。


「ううん、・・・なんでもないわ!」
「風邪だろう?熱っぽいらしいし」


風邪意外の可能性を、ジャンは婚約者にたいして思い浮かばないらしい。


「・・・・そんな、エヴァを一人にしておいて私とディナーなんて・・・愛想をつかされても知らないわよ?」


年齢もそれなりに達した婚約者の妹に対する気遣いとしては、過剰だと思われるエヴァの気遣い。それは、フランソワーズが”行方不明”となっていた過去が原因であることは明らかだった。


「行けって言ったのはエヴァだし、ここの予約も彼女だし・・せっかくだし、なあ?」


ジャンとエヴァが知り合ったきっかけがフランソワーズが行方不明になったからだったとも、言える。


「まあ!なんて不精なフィアンセなのかしら!アタシはいったい誰の妹なのかわからなくなるわ!!」


エヴァの父親も、フランソワーズのようにある日突然、姿を消してしまい消息不明のまま今にいたっている。
二人が出会ったのは、”行方不明者”を身内に持つ家族の情報交換会だった。


「アイツはこの時期いっつも体調を崩すんだ。明日くらいにシプリアン(エヴァの従兄弟の開業医)のところへ行くし、お前とのディナーをキャンセルしたってことの方が逆に愛想をつかされる!」


怖い怖い!とおどけたジャンの、フランソワーズよりもグレイがかった瞳が幸せそうに細められた。


「エヴァは・・・本当に優しい人よね」


無意識にこぼれた言葉の中に意図しない刺が含まれてしまい、フランソワーズの頬がかすかに引きつった。


「彼女は”ちゃんと”お前と”腹を割った”家族になりたいんだよ、それだけさ」


兄はそんな妹のこころを読み取り、気にはしない。フランソワーズのことは世界中の誰よりも理解していると自負している。


「・・・・そっか・・」


流されてしまった刺に、安心しながらも寂しさを感じるのはなんだろうか。
フランソワーズはワインを一気に煽って、グラスを空けた。
先ほどからワインばかりが進み、彼女の皿の上のナイフとフォークは置物のようにキラキラとテーブルの上のロウソクに照らされている。


「フランソワーズ、だから、さ。やっぱり・・まだダメ、か?嫌か?・・その、・・エヴァもフランソワーズの家族なんだから、さ」


妹の空いたグラスに注ぎ足しながら、手にしているボトルと同じものをウェイターに頼んだ。


「ねえ、兄さん・・・・・、」
「んー?」
「私はエヴァに”家族”だからこそ話さない、話したくないの。本当なら、兄さんにだって・・知られたくなかったわ。できるなら、誰にも知って欲しくなんてない、・・危険だから」
「フランソワーズ・・」


兄の困ったときの眉毛の下げ方が、フランソワーズに日本にいる”彼”を思い出させた。


「もちろん、兄さんはそうやって”隠される”ことが一番嫌だっていうことを知っていて言ってるのよ?ごめんなさいね!」


思い出したせいで自然とした微笑みがこぼれてしまったフランソワーズの、テーブルについてやっと見せた”本物の笑顔”に、ジャンは困惑の表情を露にする。


「・・・それで、いつ発つつもりで、向うにどれくらいの間、居るんだ?」


以前は彼の眉毛の下げ方に、兄をみていたのに。と、日本にいる人を目裏に浮かばせた。


「どれくらいかかるか・・まだわからないの。博士に診ていただいてからじゃないと・・状態によって長くなったり、短くなったりよ!出発は、”近々”としかまだ言えないわ!」


どうしても重くなりがちな内容を、明るく努めて何事もないことのように話す妹の姿が愛おしい。
聞き出したいことはエッフェル塔よりも高く積み上がっているが、無作為に踏み込むことができないでいる。ジャン。


「なんだそれは?」
「なにせ、”秘密の”戦闘集団ですもの♪その辺りは男の人の方がよおおおく理解できるんじゃなくて?ね?」


今度は、自分の意思で”居なくなって”しまうのではないか、と恐れて。

帰ってきた最愛の妹に以前と変わらない接し方ができていないと、毎日のように婚約者の胸の中で嘆いていた。
やっと取り返した最愛の妹を壊れ物を扱うような状態である自分に、どうにか突破口を見つけようと右往左往とする日々。

愛おしく思えば思うほど、大切であればあるほどに、ジャンはフランソワーズを意識し過ぎた。
そんなことも、これから”一緒に”過ごす時間が解決してくれると、信じている。


「・・・食べろよ、フランソワーズ、せっかくの料理が覚めてしまうぞ?」


すべてを妹のグラスについだ後のワインボトルの軽さがジャンの手に残っていた。

今の自分と妹との関係のようで怖くなる。
ジャンは新しくウェイターの手で栓が抜かれた、白ワインのボトルを見つめる。


「美味しい!」


ジャンにすすめられてから、やっとフランソワーズの皿の上で置物となっていたナイフとフォークが動き出す。
ワインボトルから視線を離して、ジャンも握りこんでいただけで動かしていなかったフォークにささっていた牡蠣を口に放り込んだ。


「そういえば、お前、いつの間にそんなに”飲める”ようになったんだ?」
「兄さんがご馳走してくれるんでしょう?それなら遠慮しないに決まってるじゃない、それだけよ!!」



ーーーそれだけ、よ。


「酔っ払っても安心だもの♪」
「程々にしとけよ!」


飲めるようになった理由。


「ふふふ♪」


そして、一緒にいなかった時間の間に培われた兄が知らない”自分”に触れられたくなくて、フランソワーズはひたすら楽しそうに振る舞い、笑い続けた。


「次は肉だっけか?」
「ね、コースで予約したの?・・・デザートは追加できるのかしら?」


笑っていられる日々がある。
兄の前で、傍で。


「・・・全部食べ終わった後で考えてくれないか?」
「はーい♪でも、追加するわね?ダメなら帰りにチョコレート買ってね?」


愛するパリで。
・・・それももうすぐ、終わるのね。














***


兄妹水入らずのディナーの翌々日。
フランソワーズが昼食用のフォカッチャサンドをオーダーしているときに、エヴァの”夏風邪”の正体が”もう一人の家族”だと言う報らせ受け取った。
エヴァのかかりつけの医者から直接聞いたのだから、間違いないんだ!と興奮しきったジャンの声に、フランソワーズは笑う。


「家族が増えるんだぞっ!フランソワーズっ!!」


「ただの夏風邪で、この時期はいつもそうなんだ」と、言いながらも心配でホームドクターのところまで一緒に出向いていたジャンにたしいてフランソワーズは明るく笑う。


「おめでとうっ兄さん!」


祝いの言葉を口にしながら、頭の端っこで浮かんだ文字を読む。


ーーージャンの家族は私だけじゃない、私、意外にも存在する。



喜ぶべきことなのに。
胸を突き上げる悲しみに飲まれないよう兄をからかい声だけで上手に笑った。
ジャンのはしゃぎぶりに相反してフランソワーズの心は冷たく凍っていく。
今日は夏一番の最高気温を記録するだろうと言われているのに、フランソワーズの躯は寒さに震えていた。


ーーー今ここを離れたら、・・・・。


使い終わった空き瓶のような、”妹が居た”という形だけしか残らなくなってしまわないか。














『来るべくして、そうなるべくして、・・時がきたから事は起きたのよ』


オーダーしたフォカッチャサンドは、タンドリーチキンとフレッシュなレタスにトマト、そしてすりつぶしたカレーペースとがマッチした、フランソワーズのお気に入りランチ、ベスト5入りする一品。

持ち帰ったそれをキッチンに置いて食べないまま、私室へと向かった。
ベッド下に隠していた箱のいくつかを取り出して、ダイニングとリビンがひとつになった部屋に戻ってくると、買い足した椅子のために二人用のテーブルが、ちょっと狭い三人用に姿を変えている、その上に置いた。

部屋から一緒に持ちだしたペンと2枚のカード。
一つは、可愛らしいウサギのイラストがゆりかごに乗って飛び出すようになっていた。


住み慣れたアパルトマンに戻ってきて以来ずっと座り続けた椅子に浅く坐り、スラスラと新しい命を宿したエヴァへ祝福の言葉を紙の上に走らせる。
淀みなく走るペン先を見下ろす青は、冬の湖の底のように冷たい色に見える。



「あとは、兄さんに・・・」

2枚目のカードはジャンに当てて。
それはカードではなくレターセットに書き留めるべきだと思うけれど、簡潔に書くために敢えてカードを選んだ。


フランソワーズがお茶に誘われた先月の終わりにエヴァと会った時、医者よりも、本人であるエヴァよりも、誰よりも早くサイボーグ003であるがゆえに、その耳と目の性能の良さで気づき、準備を進めてきた。

今度は、それらを実行するだけ。



自分が引いた線(ルール)に従わなければいけない。



私室として使っていた部屋はすでに整理されていた。

常に”そうなるだろう”予測が頭から離れず、私物が困るほどに増えるということは起きなかった。
日本に送るための荷造りも終えている。あとはジョーがメールで教えてくれた住所に郵送するだけになっている。

ジャンには言っていなかったけれど、フランソワーズは身動きが取りやすようにと、失踪する以前のようなバレエ学校には通っていなかった。
レッスン生にはならずに一般公開型のオープンクラスのみの受講だけを続けていた。
それはバレエ経験者が、躯を動かすためのエクササイズ程度のクラス。
バレエを再開することを”当然”のことと思い込んでいた兄への、妹が整えた精一杯の誠意ある”形”。

バレエを愛しているからこそ、サイボーグ化した躯で踊ることに抵抗がある。
その思いを兄に吐露することはできなかった。


もう、”私だけ”の兄ではない。
エヴァという存在に加えて、兄にはもう一つ、守らなければならない存在ができたのだから。






パリ滞在中に選んだ仕事は英語、フランス語、日本語、ドイツ語をメインにした翻訳。
フリーではなく専門の事務所に所属しないかと誘われたことは何度かあったが、フリーでいることを貫いた。


”切り”が良いように。
”跡”を残さないように。

ジャンが婚約パーティを開く計画をフランソワーズに打ち明けた日から、軌道に乗り始めたせっかくの仕事量を減らしていった。
エヴァの中に育まれた存在を知ってからは一身上の都合のためと新規の依頼は引き受けていない。
引き受けていた仕事を畳み掛けるように終わらせていったフランソワーズだけれども、2,3日本へ持っていかなければならなくなった仕事がある。
上手くスケジュール調整をつけられなかった自分の甘さにため息が出るけれど、やり取りはすべて電子メールで済ませられるので、パリでこなしていた時と大差がなく、日本での生活に影響はない。










『ジョー?

私のこと、忘れちゃったなんてないわよね?

フランソワーズです!!


ふふふ、そんなに驚かないでよ!・・・元気?

・・ええ、とっても元気よ!ジョーは?

そう、みんなは?変りなくて?



ふふ、電話なんて久しぶりね!いつもメールだものね!!

それでね、報告があって。



心配しないで、そういうことじゃないのよ。

それでね、・・・今週末の便でそちらに戻ることにしたの。

え?
急すぎるって・・みんないつもそうでしょう?

何もないわよ?
何も、本当によ、毎日とっても楽しいわ!!

手頃なチケットが手に入ったからなのよ。
それに・・早い方がいいでしょう?・・・私だけずっとだったし・・・。
体調?いいわよ、何も問題なく過ごしているわ。

そういうことなので博士にお伝えしておいてください。
それから、いくつか荷物を送りたいの、その手配で相談があって、え?・・元気よ!もちろん!!

もうっ!

大丈夫、本当に、本当!
本当によ、本当に、本当の本当なんだから!!

ジョーってば、いつからそんな心配性になっちゃったの?






そうだわ、聞いて!ジョー、ねえ、私ってばとうとう”おばさん”になるのよ!

そうなの!

結婚はしてないわよ?
でも婚約はしてるもの。

なにかおかしいかしら?





お祝い?

いいのよ、気にしないでちょうだい!
まだ”どっち”かわからないのですもの。


空港まで迎えに来てくれるの?
忙しいのじゃなくて?

一人で大丈夫よ、子どもじゃないもの!
予定があるなら、そちらを優先してちょうだい。

もっ!タクシーくらい乗れるわよっ!!
・・・・それで、本当にジョーがいいのなら、・・だけど・・。

ええ、そうね。

わかったわ。
うん。

フライト便はメールで知らせるわね、ええ。


・・・イワンは?
今は夜なの?

起きたときにビックリしてくれるかしら?イワンだもの、ふふふ♪

きっと”もうすでに”わかっているわよ、きっと。


荷物の量は・・ダンボールに2つくらいなんだけれど、重量?
今はわからないわ。

あとで一緒にメールしていいかしら?

・・・ええ、ありがとう。

うん。


博士に、みんな(日本滞在組)によろしくね。




ええ、・・・・。


大丈夫よ、本当に。


ええ、・・ええ・・・。





ご報告するような事なんてありません、009!

ふふふっ・・どうしちゃったの?


アナタの携帯の電話番号?
邸の電話じゃダメなの?・・・あ、そうね!

空港での話しね!

知っていると思うけれど、・・・メールで送ってくれる?
ありがとう。


要件はそれだけなの、・・・それじゃあ、おやすm・・・あら?

こっちは”おやすみなさい”だけれど、日本はお昼なのよね?



じゃあ、こんにちは?ふふふ


また、メールで。



ええ、



ありがとう、ジョー・・・。




もうっ!本当に何にもないってば!!


切るわよ?



いい?




もーっっっ!!!



じゃあ、一二の、三でっ!




いくわよ?

一二の・・・・・三!



・・・・・・・?


・・・切ってないじゃないーっ!!!ふふふっもうっ!大丈夫よっ!

そんなに心配なら、加速装置で迎えに来てくれる?


え?ドルフィンを?!

そんなっもうっ冗談よっ!!



冗談です!

じゃあね!ジョーっ

チケットはあるの!ドルフィンは結構ですっ!!

じゃあね!!本当に切っちゃうんから!!』




















”帰って来られた”だけでもラッキーだと思わなくちゃ。
ジャンの傍で暮らせた、”妹”でいられた、前と代わりのない生活を過ごせたのだから。

帰ってくる前に、自分で引いた線(ルール)を変更することはできない。
これくらいのことで、いちいち変更していたら、アタシは003として生きてはいけないだろう。



「・・・あ・・」

何度も下書きして決めた文章を、カードの上で間違えてしまった。


ーーーBGの存在を感じたら。


「あれ、ぇえ・・?」

滲んでよく手元が見えていないせいだ。


ーーージャンの短かにいる人間が、誰かが”違い”に気づく兆しをみつけたら。


「・・わかっていたことじゃないの」

こぼれた温かな涙が、カードの上に落ちて、滲む。


ーーー兄さんがが結婚、もしくは・・・”幸せになれる”女性が現れたら。


「やだわ・・」

滲みを消そうと、手で擦ってしまい、水性だったペンは汚れて広がった。


ーーーエヴァに知られたら。


「・・・ちゃんと、何度もシュミレーションしてたじゃない、”最後”を」

フランソワーズは浅く腰かけていた椅子から立ち上がった。



ーーー二人に、ジャンに、”新しい家族”が、子どもが、できたら。


「ちゃんと、パリに戻ってくる前に・・っ・・・決めたじゃないっっ!!!!!」




ーーー泣く必要なんてないのよっ!



握っていたペンをテーブルに叩きつけるように置いた。
目の前にある失敗したカードをビリビリと破く。
散っていく汚れたカードがフラフラとフランソワーズの周りを優雅に舞う。

舞い落ちる紙片を無視でも払うかのように腕を動かすとテーブルの上に置いていた、ジャンとエヴァ、二人の”赤ちゃん”へのプレゼントが、耳を塞ぎたくなる音を立ててテーブルから落ちた。
フローリングの床に跳ねて、形を崩した箱が、涙でさらに歪んでみえる。

残響が止んだ一瞬の静寂の後に、揺れた華奢な肩。


「ぅああああああああああああああああああああああああああっっっnああああっああああああああああああああああああああっっっs!!!」



吸い込んだ息の量に見合わない、吠えるようにあげた声が部屋に響いた。










引いた線(ルール)は、すべて愛する人のため。
大好きなジャンの幸せの、ため。

妹である、私ができること。

守ること。




ジャンの、私の、新しい家族を、守る、こと。













だから。




「あああああああああああああああああっっああっっあああああああああああああああああああああああああああああああっっっわああああああああああああっあああっああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっっ!!!!!!!!」」








フランソワーズは泣けるだけ、泣いた。
声も躯もカラカラに干からびた蝉のようになるまで・・・・。











***


ジャンには何も言わなかった。
フランソワーズは初めから出発する日を言うつもりはなかった。
悟られないように、注意して”いつも通りに”出発の日の週末までを過ごす。


空港から、ジャンへと電話をいれた。
それがジャンの声を聴く、会話する最後のチャンス。

何度も描き直したメッセージもちゃんと、プレゼントと一緒においてきたけれど。




「allo?」


スピードダイヤルを押す手が震えている。


「兄さん、フランソワーズです」


耳に届いたのは、フランソワーズが望んでいた主が応答できないようなので要件があれば録音を求める、という機械でつくられたメッセージだった。
瞳の奥が熱くなる。


「急なんだけれど、・・・今から日本へ発ちます。」


フランソワーズが乗るべきフライト便のアナウンスが流れる声をBGMにして話しだした。


声が震えだす。
ぐっと力を入れて、耐えた。


「部屋は片付けておいたわ。いつでもベビールームに改装出来る状態よ。・・・リビングにね、エヴァと赤ちゃんへのプレゼントを置いておいたの、喜んでくれると嬉しいな」


録音できる時間は何秒くらいだったか。


「兄さんは、絶対に女の子って決めていたけれど、私は甥っ子希望よ!・・・・楽しみね、・・予定日は春ごろよね?・・それでね、・もしも、よ、もしも、女の子だったなら、・・・・・・・・」


乗り込みゲートに並ぶ列が、スムーズに進んでいいく。


「・・・じゃあ・・ね、兄さん。・・・・バイバイ」


パスポートと航空券を求められたので、携帯電話を切った。
飛行機に乗り込む寸前に、見つけたトラッシュボックスへともう使う予定がないので携帯電話を捨てた。
ちゃんと、裏のメモリカードとバッテリーを抜いてから。




















もしも、



もしも、・・・・女の子だったら。



ママンと同じ名前の

「フランシーヌ」と、つけてあげて欲しいな。








私が叶えたかった、夢を・・・お願いしていいかしら?



















***

就寝につく前にジョーは必ずメールチェックを怠らない。
その”メール”チェックは必ず地下研究所のコンピュータを使用する。

メールフォルダに、受信の文字が点滅していた。
アドレスをチェックして、一番に開いた内容を確認する。

添付ファイルになっていた写真には、おかっぱの亜麻色の髪に、大きなピンクのリボンを頭の上に”乗せた”こぼれ落ちそうなほど大きなブルーグレイの瞳の女の子が、”4”とかたどった大きなロウソクを目の前にして笑っていた。

写真のロウソクにはまだ吹き消されずに火が点っているにもかかわらず、頬にはすでにケーキのクリームがついている。



ーーー”おばさん”そっくり!


ジョーはニンマリと頬を高くしながら、文面へと視線を移した。




『Cher Monsieur ジョー、

フランシーヌにお祝いのメッセージとプレゼントをありがとう。
フランソワーズからも、届きました。

相変わらず”住所不定”の名前だけです。
まったく誰に似たのだか・・・困ったものです。

妹は元気でしょうか?
フランシーヌは毎日着々とフランソワーズに似てきていて、エヴァはアルヌール家の遺伝力に毎日振り回されていますよ。
ジョーの苦労は、私が一番よくわかると思う!が口癖になりそうです。

そんなエヴァですが、フランシーヌにバレエを習わせると張り切っています。
初めてフランソワーズがバレエ教室から帰ってきた日の興奮に高揚した顔を娘に重ね、今から楽しみです。

フランソワーズは、まだ踊りませんか?
再び、妹が舞台に立つ日を、願ってやみません。

その日がくれば、きっと彼女のこころは私たち家族と一緒に過ごす強さを持ってくれるでしょう。
私たちはこれからもずっと待っています。


がんこで融通のきかない妹を、どうかよろしく

A bientot(また近いうちに)
ジャン・アルヌール』




ジョーはゆっくりと二回読み返してから添付ファイルの写真を専用のフォルダに保存した。















end.















*ジョーとジャンとのやり取りは”京都旅行”編の後から始まりました。&フランソワーズはときおり兄家族の情報をこっそりイワンから聞いています。*
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